ベトナムの雨
昨日のハノイの雨はすごかった…
『大きな雷が鳴り響いた』と思ったその次の瞬間には、雨が降り、一気に豪雨となる。
私は雨が降るまでの数秒の時間の中で考えることはただ一つ。
『どこか、雨宿りが出来る場所が無いか』である。
当然、その数秒で判断を下すので、なぜこの場所を雨宿りの場所として選んでしまったのかと後悔をすることもある。
昨日は、野菜を買いに出かけた時に豪雨と出会ったのだった。
私の判断は、『シャッターが閉まった家の軒下で雨宿りをする』である。
軒は25㎝程だと思う。
この空間に私は身を託したのであった。
しかし、これが間違いだった。とても家の軒下で耐えられるようなレベルの雨ではない。雨ではなく、豪雨なのだから…
容赦なく、軒下に豪雨が降り込んでくる。
そして、軒下からは、雨がしたたり落ちてくる。
なんと!雨漏りをしているのだ。
軒下から落ちてくる優しい雨漏りと、軒下の外に待ち構える激しい豪雨を比べれば、雨漏りはなんてかわいらしい水滴なのだろう。
ここは雨漏りと分かち合おうと、私の頭に落ちてくる水の粒を素直に受け入れた。
加えて、なぜかシャッターの内側から私の足元に向かって雨が流れ出てくる。
『なぜシャッターの内側から、雨が外側に流れ込んでくるのだろう?シャッターの内側には家しかないはずなのに…』と心の中は、疑問でいっぱいであった。
『この家は天井がないのだろうか?』
今すぐにでも、シャッターを開けて、建物の構造を確認したくてたまらない。
20分程経った頃だろうか。一向に雨が止む気配はない。
いや、むしろ雨が強くなっているのではないか!
ここでまた、判断を求められる。
『この雨のなかでも歩いて帰るべきか、それとも、このまま待つべきか。』
自宅までの距離は、ここから走れば、5分程である。
私は、この雨の勢いと、軒下にいるにも関わらず既にびしょびしょになった服と靴を見て、走って帰ることを決断する。
道路は、この20分の豪雨で冠水している。
排水溝にすごい勢いで、道路に打ち付けた雨が流れている。それでも道路は冠水したままである。
雨の降る量と排水溝に流れ込む量が、
『雨の降る量>排水溝に流れ込む量』の方程式に当てはまっているのである。
ただ、この雨にも良い点はある。
この雨が道路をきれいにすることである。
道路に落ちていたゴミは一気に雨と一緒に排水溝へと飲み込まれる。
次の日の朝には、きれいな道路が出来上がる。
冠水の道路を走り抜け、無事に家路に着き、濡れた身体をフカフカのタオルで拭いていると、豪雨は止んだ。
『世の中はそうゆうものだ』と改めて、心の中で思った。
ハノイの雨、ベトナムの雨は気を付けなければならない。いや、気を付けても仕方が無いのかもしれない。
むしろ子供の頃の気持ちに戻り、濡れている自分を楽しんだり、
雨宿りをしている時間を楽しむくらいの心持ちが必要なのだと思う。